Lack Of Love
「ありがとう」
マルチェロは湯気を放つカップを受け取ったものの、口も付けずに腕も手渡された形のまま新聞を読み続けている。
ククールもじっと動かずにマルチェロを見ている。
手は兄同様、カップを渡した形のまま固まっていた。
そしてマルチェロがそのページを読み終わるまで、二人はずっと動かなかった。
午後になってから買い物に出かける。
もっとも旅に必要な物を買い揃えるだけなので楽しいショッピングとまでは行かない。
それでもククールは自分でもおかしいと感じる程買い物を楽しんでいた。
隣に目をやれば、マントを目深に被った見るからにワケありな旅人がいる。
ククールから見ればマントがあろうとなかろうとマルチェロはマルチェロだ。
その姿が目に入る、ふとした瞬間に体が触れ合ったりする、そんなことが一々嬉しくてしょうがない。
いつにも増して店の女主人へのお世辞も冴えたせいかたくさんまけてもらえたし、ククールは周りの全てが自分を暖かく迎えてくれているような気分だった。
「どこ行くんだ?」
青い空が段々と赤く染まりはじめ、買い物も済ましてさぁ宿に戻ろうとした時、マルチェロは無言で宿とは違う方向へ歩き出した。
「鍛冶屋だ」
よく見てみると、腰に差している剣がいつもと違う。
自分で磨くこともできるマルチェロが預けたくらいだから、余程凄腕の鍛冶職人なのだろう。
ククールは相変わらず弾んだ足取りでマルチェロの後をついて行った。
裏通りを入って細い道を幾つか過ぎ、どこから来たのかククールがわからなくなった頃、こじんまりした民家の扉をマルチェロは叩いた。
不審な顔で覗き込んでくるククールを無視して扉を開く。
家の中ははひどく質素で暗かった。
木の机と椅子があり、あとは奥に続く扉があるだけ。
窓すらないその部屋は異常な雰囲気を感じさせた。
机の上にあるランプが頼りなく部屋を照らしている。
扉を閉めると目が慣れずに何も見えなくなった。
「出来てるよ」
急に奥の扉が開いて所々焦げた灰色のローブを纏った老人が現れたので、ククールはぎょっとして一歩下がった。
マルチェロは意に介さずに老人から剣を受け取り、それまで持っていた剣を返した。
マントのフードを脱ぎ、すっと剣を抜く。
刀身を上から下まで舐めるように見つめる。
ランプの橙色の光に照らされた真っ直ぐな細身の剣とマルチェロの真剣な横顔。
老人もククールもじっと動かずにその様を見つめていた。
「素晴らしい」
暫くして、ため息を吐くようにマルチェロは言った。
そしてポケットから硬貨の入った袋を出し机に置いた。
「ありがとう」
マルチェロは老人に向かって礼を言うと、動かないククールのマントを掴んでそこを後にした。
どうして頭がぐらぐらするんだろう。
ククールは少し前とは打って変わった重い足取りで、マルチェロの後ろを歩いていた。
何か重いものが自分に圧し掛かってきたみたいだった。
違う、違うんだ。何かが違う。
脳みそが活動を停止してしまったのか、何も考えることができない。
考えすぎはよくない、行動あるのみ。
だが方向が定まらなければ動くことも出来ない。
ククールはよろよろと足を止めると、大きく深呼吸をして姿勢を正した。
足音が止まったことに気がついて、マルチェロも足を止め、振り返った。
何も言わずにこちらを見ている。
ククールの口から笑いが洩れた。
「・・・なんだ?」
「アンタ、優しくできるようになったな」
そうだ、兄は優しさを持ち合わせていないわけではないのだ。
そんなことは会った時から知っていた。
優しくすることも出来るし、人の親切を素直に受け入れることも出来る。
長い間それらをしてこなかっただけなのだ。
今もこうしていきなり止まった弟を、待ってくれている。
ただそれだけのことにひどく浮かれていた先程までの自分を、ぼこぼこに殴り倒して罵倒してやりたい気持ちになった。
マルチェロは、ため息を吐いて俯いてしまったククールの前までゆっくりと進んだ。
「優しくされるのは自分だけでないと不満か?」
声は冷たくも暖かくもなかった。
近づいてきた兄のつま先は泥に汚れている。
昔なら考えられなかったことだ。
ククールはつま先から一気に顔を上げ、マルチェロを見た。
マントの中で二つの瞳が夕日を反射してちらりと光っている。
「オレは・・・」
ククールは生まれてから初めて声を発したような、しゃがれた声を絞り出した。
「あんたに優しくされたいわけじゃない」
優しくされたくないわけがない。
言ってはいけないと何度も自分に言い聞かせた。
この男を前にして何度も口を噤んだ。
何も望んではいけないと盲目に生きてきた。
獲得できたと思っていたはずの理性は、ククールの中のどこにも存在していなかった。
「ただ愛されたいだけだ」
『弟として認めて欲しいんだ』
自分でも驚くほどするりと、言おうと思っていたことと違うことが口を出た。
いま、自分はなんと言った?
驚きで体を強張らせたククールを、マルチェロはじっと見つめていた。
「愛されたい、だけ」
マルチェロは一文字一文字をなぞるように呟いた。
その声にククールはくっきりと軽蔑の色を感じ取った。
強張っていた体が益々強張り、背中にひやりと冷たいものを感じる。
「随分と傲慢な台詞だな」
はっ、と乾いた声でマルチェロは嘲笑う。
馬鹿にした笑いを浮かべたまま、ククールを覆いかぶさるようにして壁際に追い詰めた。
ククールはぎしりと軋む足の関節を引きずるようにして後退するが、細い道ですぐに壁にぶつかった。
夕日色に染まった土壁は、その暖かげな色とは裏腹にひやりと冷たく、思わず身震いが走る。
「愛とはなんだ?」
ククールは何も言えずにマルチェロを見上げた。
女の子達に囁いてきた愛の言葉がぐるぐると頭の中を駆け巡る。
あれは、愛なのか?
「答えろ・・・!」
静かな恫喝に体がびくりと震えた。
「・・・・愛は、」
「愛は?」
ククールは瞳を閉じた。
体全体がマルチェロに包まれている。
肺いっぱいに息を吸いこめば、砂の匂いに紛れて仄かにマルチェロの匂いがした。
「愛は、寛容であり、愛は情け深い。また妬むことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。不作法をしない、自分の利益を求めない。いらだたない、恨みを抱かない。不義を喜ばないで、真理を喜ぶ。そして全てを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える」
ククールが流れるように囁いた言葉は、聖書の一説だった。
修道院にいた頃に何度も何度も繰り返して読んだ聖書。
「それは、お前の言葉ではない」
マルチェロは目を閉じて黙り込んだククールに、言い聞かせるように強く囁いた。
真上から降ってくる言葉にククールの拳はきつく握り締められる。
小さくちくしょうと呟いて、目の前にある兄の顔を真っ直ぐに見た。
「わかんねぇよ!愛がどんなもんかなんて・・・!」
「わからずに求めるのか?」
目を開くと思った以上に近い位置にマルチェロの顔があって一瞬怯む。
癖になってしまった兄の眉間の皺が目に入る。
しかし考える間もなく言葉が溢れ出た。
「わかんねぇよ。わかんねぇし、言葉にも出来ねぇ!だけどな、」
目の前の胸を利き腕で思い切り突き飛ばす。
「愛がどんなもんかは知ってるさ!」
マルチェロはすぐに体勢を整えて、いきりたつククールを見つめた。
その目は氷から漂う冷気のように冷ややかだった。
「そうか」
ゆっくりと突き飛ばされた胸の辺りを払う。
「生憎だが、私は知らない」
ぽつりとマルチェロの口から洩れた呟きは、その場に静寂をもたらした。
そして目を見開いているククールを一瞥もせずに、ばさりとマントを翻し去っていった。
その大きな背中は曲がり角で消え、足音もすぐに聞こえなくなった。
ククールは込み上げる感情に耐え切れず膝をついた。
言わなければ良かった、また不必要なことを言ってしまったのだ。
そんな風には思いたくねぇ!
兄は間違いなく変わって来ているのだから。
そして自分も。
今は
ククールは決意を露わに勢いを付けて立ち上がった。
逃げずに宿に帰って、マルチェロの側にいよう。
どんなに嫌がられてもだ。
少し震える両膝を叩き、深呼吸をして、ククールはマルチェロの後を追った。
back
|