ライオンのため息





あますところなく暗闇に満たされたマイエラ修道院から、一人の男が出てきた。
重い扉をなんということなく閉め、小さな噴水の前に立ち海を見つめる。
潮風に揺れる黒髪に、深い湖を思わせる瞳。
マルチェロは夜明け前の、まだほの暗い海と空の境を目を細めて見ていたが、何かの気配を感じて視線を左に逸らした。
その瞬間、ひゅんと鋭い音を立てて何かが空から落ちてきた。

どすんっ

着地に失敗したらしく、その何かはよろけながら草の上に倒れた。
マルチェロの表情は一転して厳しくなる。
一歩その謎の物体まで足を進めて、止めた。
腕を組んでそれが来るまで待つことにしたようだ。



謎の物体ーククールーは、痛む腰をさすりながらよろよろと立ち上がった。

道から逸れるわ着地は失敗するわ、ついてねぇ。

小さく悪態を吐きながら、しかし気にした風もなく大きく伸びをして修道院へと顔を向けた。
ぴたり、とククールの体の動きが止まった。
そしてもう一度、今度はかなり感情を込めて悪態を吐くと、ことさらにゆっくり歩きはじめた。
10メートルほどの距離からじりじりと近づいていく。
誰だかなんてとっくにわかっているが、それでもマルチェロの厳しい表情がうっすら見えてくると、流石のククールもため息を吐いた。
微動だにせず自分を見ている。

そんなに熱く見つめられると溶けてなくなってしまいそうだよ。

なんて、テンションを上げようにも相手が相手だ。
小さく冷たい笑いを浮かべつつ全身を緊張させ、ククールは土の道から舗装された道へ、ゆっくり足を踏み出そうとした。



ククールがよろけながらゆっくりとこちらへ歩いてくるのを、怒鳴りつけたい衝動を抑えながらマルチェロは見ていた。
近づいてくるにしたがって気がつく皺だらけのマントや潮風に混じる酒の匂いや頬の赤い顔に益々苛立ちを募らせつつ、辛抱強く自分の前までククールが来るのを待つ。



やっとククールが修道院の敷地に足を踏み入れようとした瞬間、その背後の茂みから何か飛び出した。
マルチェロは流れるような動きで、本能に従い剣を抜き構えた。
ククールはマルチェロの緊迫した動きが見えていないかのように、悠長な動きでレンガの上に足を着地させている。
マルチェロからククールまでの距離は4メートルほど。
だが、魔物の方が早くククールに到達するだろう。
マルチェロは動かずに噴水の前から全てを見ていた。
まるでスローモーションのように、時の流れの鈍さを感じた。



魔物がククールの真後ろから奇声を上げながら飛びかかる。
ククールの体がぐらりと低く倒れた。
やられたか、とマルチェロが一歩前に出た瞬間、きらりと何かが光った。
低い体勢から素早い動きで体を回転させ、まだ宙にいた魔物を、ククールは遠心力をつけレイピアで思い切り地面に叩きつける。
そして叩きつけた腕は、そのまま流れるような動作で次の瞬間には魔物の心臓を一刺しにしていた。



魔物の最後の悲鳴を聞いてマルチェロは我に返った。
ククールは死体からレイピアを抜き、血を払い鞘に収めた。
そのすっと立つ後姿からは先程の千鳥足の酔っ払いをまるで感じさせない。
酒を飲まなかったのか、それともすでに抜けているのか。
マルチェロも剣を収める。
いつの間にか強く握りしめていた拳を、ゆっくりと柄から引き離した。
ククールはまたよろよろと、マルチェロの方へ歩き出している。

「これはこれは、団長殿も朝から魔物退治ですか?」

マルチェロの1メートルほど前で止まり、慇懃無礼に挨拶をする。
昇りはじめた朝日を銀の髪が跳ね返している。
一見爽やかな笑顔からは、やはり酒の匂いが漂っていた。

「行け」

「は?」

「行けと言っている。いますぐ部屋へ戻れ、失せろ」

マルチェロは低く唸るように言うと、また海へと向き直った。
ククールは気味悪げにマルチェロを見てから、静かに修道院の中へ入っていった。


腹立たしい。
血筋、貴族であるということ、それがどうしたというのだ。
そんなものは魔物に襲われた時何の役にも立たない。
必要とされるのは本人の力だけだ。

「クソッ」

だいぶ顔を見せはじめた太陽を睨みつける。
ククール以上の能力を持った人間がマイエラに何人いるだろうか。
自分以外にはいない可能性の方が濃い。
マルチェロは苦いため息を吐いた。

ククールは着々と力と知力を付け、背も昔と比べ驚くほど伸びた。
その力を認めずにいるのは難しい。
マルチェロが必要とするのは力だけだ。
だから、ククールが兄として自分を見なければ、まったくの他人として接してくることがあれば。

そんなことは有り得ない。

自分で想像して苛付いていれば世話はない。
きっと朝の清浄な空気に浸されたせいだろう。
マルチェロは噴水の水で勢いよく顔を洗うと、人の動く気配を見せはじめた修道院へと戻っていった。

 

 

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