我愛称





マルチェロは神によって生みだされた国の125代目の王だ。神官に神子、神に祈りを捧げる舞人。 神の存在に溢れた国であって、マルチェロは神を信じていなかった。
王の弟ククールは正妃の子どもにも関わらず王にはならなかった。 なぜなら生まれてすぐ毒殺されかけ、子どもの死を恐れた正妃がククールを王籍から抜き、政治から最も離れていて安全な舞人として育てたからだ。 マルチェロの母は、毒見をして死んだ。そうして周りの兄弟が死に絶えた頃先王が死に、運良く生き残っていたマルチェロが王になった。 あれだけいた兄弟も、今はマルチェロとククールだけだ。 神がいるのなら、そいつはよほど人間を憎んでいるのだな、とマルチェロは思った。
彼が王位に就いたのは弱冠16の歳だった。ククールは10歳にも満たない子どもだった。



それから10年が経った。
玉座に跪く弟は煌びやかな衣装を身に纏い、薄暗い中でも輝いている。

「ククール、舞の時刻だ」

「かしこまりました」

ククールが立ち上がると金属と衣擦れの涼やかな音が二人きりの神殿に響いた。 神に祈りを捧げるために舞うククールはこの国一番の舞手になっていた。 銀の髪に空のように澄んだ青い瞳。神すらも魅了する程の美貌。 そして、見た目に似合わないずる賢い愛嬌のある性格で神殿の皆から慕われている。
この弟の他にマルチェロが信用している人間はいなかった。 否、愛している人間はいなかった。王は実の母親ですら愛せなかった。 キラキラ光を放ちながら舞うククールはいつでもそこに存在し、王の孤独を癒してきた。 王権に関わる者の悲劇を分かち合える唯一の存在。
それがマルチェロの中で肉親の愛を超えた執着になるのに時間は掛からなかった。

「神の為でなく、私の為だけに舞え」

「・・・オレはいつだってアンタの為だけに踊ってきたよ」

ククールもまた、神を信じていなかった。
神の国で二人は二人きりだった。



王はその完璧な政治力で国を動かしていた。
冷たい美貌に嘲笑以外笑みが浮かぶことはなく、誰からも恐れられていた。 ククールも例外ではない。兄として慕ってはいるが、王として仕事をする兄は恐ろしいと感じる。 誰も信用していないとその瞳が語っているからだ。
自分だけは違う、兄は自分だけは信用してくれている。 神殿でも護衛を付けずに自分と二人きりになってくれるし、寝殿にも出入り自由。そんな待遇は自分だけだ。
そう自分に言い聞かせてきたが、ククールは常に不安だった。 王の冷たさを垣間見る度に、いつか自分もあのように冷たくされるのではないか、もういらないと舞に呼んでもらえなくなるのではないか。
ククールはマルチェロが王になり母が亡くなってからはずっと、胸が苦しくなるほどに王である兄のことばかり考え過ごしていた。



「王様、アンタはオレのことどう思ってるんだ」

そんな自分に限界を感じたククールはある日、率直に兄に聞いた。 マルチェロは突然深夜に閨を訪れた弟に目を瞬かせてから、膝の上で開いていた本を閉じた。

「・・・お前は、・・・・・」

ククールの目を真っ直ぐに見つめる。色のない問いかけだと確信し、マルチェロは深いため息を吐いた。 この弟が色に疎いわけではないことを知っている。神官や神子と違い、舞人は交わりを禁じられていない。

「たった一人の弟だ、大切に思っている」

「・・・!王、オレもだ、ずっとアンタの傍にいる」

「それでいい」

ククールは頬を染め勢いよく頷くと、短く別れを告げて閨の薄布をすり抜けていった。


「愛している、ククール」


薄っすらククールの体温の残る布団を撫で、マルチェロは一層深いため息を吐いた。



王は、兄は、自分を大切だと言った。ククールは自分が幸せの絶頂にいると感じた。
その絶頂から墜落したのは次の夜だった。
久しぶりに一緒に寝ようと考えたククールはまた閨を訪れた。 兄は眉間に皺を寄せて、じっとククールを見てから言った。

「・・・夜間、閨への出入りを禁じる。出て行け」

世界が終わったのかと思う程、ククールの視界が暗くなった。



どうしてどうして。昨夜は大切だと言われたのに。次の日には出て行けなんて。 ククールは舞の練習も出ずに、神殿の一角に篭っていた。 いくら考えてもわからない。その内に、気の短いククールは苛々してきた。

「くそっ、こういう時は舞って頭を空にするに限る!」

ククールは無心に舞い続けた。 1時間、2時間。疲労が頂点に達し、倒れそうになりながらそれでも舞っていた。 夜空に満月が浮かんでいるのが偶然ククールの目に入った瞬間、視界が真っ白になった。



「人の子よ、どうした」

ハッと目を開くと、そこは神殿ではなかった。空気の濃度の違いにククールは呻いた。 地下洞窟のような、水を湛えた美しい空間。空にはいくつもの月が燐光を放って眩しい。 自分の前には水色の長い髪の人間がいた。否、人間に似た姿の何かがいた。

「アンタ誰?ここどこ?」

ククールは、構えようとして腕の力を抜いた。目の前の何かからは優しい空気だけ流れていた。

「お前の心が重く沈んでいるのは、この男のせいだな」

何かが腕を上げると、フワリと水の塊が浮き上がり、そこにマルチェロの姿が映った。

「王・・・」

ククールの胸がキリリと痛んだ。

「愛しい子、お前を悲しませるとは許しがたい男だ」

そう言いながらも何かは優しい瞳で水に映るマルチェロを見つめていた。

「お前の願いを言ってごらん」

「オレの願い?」

「そうだ、なんでもいい。一つだけ叶えてあげよう」

「オレの願い・・・」


もっと笑ってほしい。でもそれは叶えてもらうようなことじゃない。
兄に愛してほしい。でもこれも叶えてもらうんじゃなくて。


「ないよ、オレ、人に叶えて欲しいことなんて。全部自分で叶えたい」

何かはこれ以上ないくらいに綺麗に微笑んだ。

「ではお前にこれをあげよう」

水がパァッと光ると、後には七色に輝く羽衣が浮かんでいた。

「綺麗な羽衣だな・・・。貰っていいのか?」

「勿論。これを身に纏い舞えば、誰もがその者の虜になる。王の前で踊るといい。・・・それで真実がわかる」

「ありがとう」

羽衣の水のような肌触りにうっとりして、説明を話半分に聞きながらお礼を言った。

「頑張りなさい、人の子よ。いつでもお前を見守っている」

「あ、でも虜って・・・!!」

ククールが慌てて羽衣から顔を上げると、目の前はいつもの神殿の壁で、水色の髪一本見当たらなかった。



王の待つ神殿、一番神に近いとされる舞殿。一歩一歩近づく度に心臓がドンドンと胸を叩く。 羽衣を身に着けたククールはすれ違う人間全ての時を止めてしまう美しさだった。

これで王はオレの虜?

それは自分の意思とは反する行いだった。 だがククールは兄に愛されるかもしれない誘惑を目の前にして撥ね退けることはできなかった。 それにこれが本物とは限らない。そう言い聞かせて、深呼吸をして扉を開けた。

王が祭壇の前にゆったりと座っていた。杯を手にしている。どうやら神に捧げられた酒を飲んでいるらしい。 兄らしい振る舞いに思わず微笑みながら近づいた。あれだけ緊張していたのが嘘のように消えていた。

「美しい羽衣だな、どこで手に入れた」

「それは勿論、神様から頂いたんです」

そう答えるしかないククールに、王は一瞬だけ眉間に指を当て、すぐに冷たい美しい笑顔になった。

「なるほど、神からと来たか・・・。では舞え、ククール」

ククールは舞った。いつも通りに、いつも通りにと心に念じながら。 聡い王のことだから、少しでも意識して舞えばすぐに異変に気付かれるだろう。


カチャンッ


杯が落ちて割れた。
驚いて王を見ると、王はこちらに背を向けていた。

「もういい、出て行け」

「そ、そんな、マルチェロ!オレが何をしたってんだ!?」

「お前が出て行かぬのなら私が出て行くまでだ」

マルチェロは裾を翻して舞殿から出て行った。



神なんて神なんて、嘘つきだ!
七色の羽衣の美しさはちっとも兄の心を動かさなかった。 それどころか怒りまで買ってしまった。確かに王は厳しい、怖い、冷徹だ。 それでも二人きりの時にこんな突き放されたことはなかった。 ククールはそこで神の言葉を思い出した。

神は『真実がわかる』と言っていなかったか?

これが真実?
兄は自分を愛していない、それが真実だったのだ。

「ちくしょう・・・!こんな真実、知りたくなかった・・・」

ククールは気力を振り絞って羽衣を脱ぎ捨てた。



その日からククールが王に呼ばれることはなくなった。 なんでも王に新しくお気に入りの舞人が出来たらしく、専らその舞人に舞わせているらしい。
ククールはひどく落ち込んでいた。
恐れていたことが起きてしまった。もう自分は用無しなのだ。 頑張って練習してきた舞も、もう見せる相手がいないのではしょうがない。 少しでも美しく見えるように面倒臭くても手入れを怠らなかったこの長い髪も。 全ていらなくなってしまった。

しかしククールはこれらの事実とは別のことで落ち込んでいた。
なぜ自分はあの羽衣を使ってしまったのか。
確かに好奇心のある人間なら誰でも使ってみようと思うだろう。 でも、兄のあの言葉を信じていれば、それだけ信じていれば今のこの状態にはならなかったのに。 自分は兄の言葉を信じ切れなかった。いつでもどこか不安を感じていた。 だから羽衣を使ってしまった。
きっとこれはその罰に違いない。
ククールは神殿に篭り、毎日を泣いて過ごした。



それから1ヵ月後。
うとうとしていたククールが窓を見ると、驚く程大きな満月が覗いていた。 ハッと気付くと、また水色の髪を垂らした麗人が目の前に立っていた。 指で頬の涙の跡を拭われる。優しい動きだった。

「お前の涙はもう、枯れ果ててしまったようだね」

「アンタ、・・・アンタのせいじゃない、使ったオレが悪い。でも、アンタの顔は見たくなかった・・・」

ククールは神に背を向けた。

「あんな真実、知りたくなかった」

「人の子よ、お前には真実が見えなかった」

「・・・どういうことだよ?」

「真実はお前の目には映らず、お前の兄にも映らなかった、それだけだ」

「だからどういう意味だって!」

振り返ると、神は悲しげにククールを見つめていた。

「人の世界ではそれが普通だ。真実なんて、誰の目にも映らない」

「なんなんだよ・・・何が真実だってんだよ!!オレはどうしたらいいんだよ・・・!!」

ククールは身体いっぱいに叫んで、崩れ落ちた。神が震える肩にそっと手を置く。

「好意でしたことからお前たちの運命をこじらせてしまった。すまない」

神はしゃくりあげるククールの肩を優しく撫でた。

「だから、私はもう干渉しない。羽衣はいらなかったのだ。・・・いや、もう私という存在が必要とされていないのかもしれない」

ククールはまたこの世界から遠ざけられる力を感じ、慌てて叫んだ。

「オレは神を信じない!だけどアンタの好意は嬉しかった!ありがとう!ごめん!」

泣きたくなる程優しい気配がククールを包んだ。



目を開けると、ククールは柔らかい布団の上に横になっていた。 麝香と白檀を混ぜた懐かしい香り。これは王が特注で作らせた物で、王以外の使用は禁じられている。
身体を起こすと、そこはやはり王の閨だった。身体に掛けられていた物がスルリと落ちる。 それはあの羽衣だった。だが、七色の輝きが薄らぎ、以前程の美しさを感じさせなくなっていた。

「起きたか」

「マ、・・・王様」

薄布をくぐって王が入ってきた。 蝋燭の明かりに、ぼんやりとマルチェロが照らされる。その表情は王には珍しく暗く曇っていた。

「オレ、どうしてここに・・・」

ククールは閨への立ち入り禁止令を思い出した。

「あ、もう行くよ、ごめん」

そそくさと立ち上がろうとすると肩を掴まれた。強い力で元の位置に戻される。兄もそのまま腰掛けた。

「ここにいろ、出入り禁止も解除だ」

「・・・わかった」

嬉しいのと、それでもここには来ないだろうな、と思うのとで複雑に微笑んだ。 いつもなら気にならない沈黙が苦で、目に入った羽衣について聞いてみる。

「なぁ、この羽衣どうしたんだ?」

「それはお前の物だろう、今度は失くさぬようにしておけ。よく似合っていた」

「あ、ありがとう。どこで見つけたんだ?」

言われ慣れた言葉も兄に言われると妙に恥ずかしい。 伏目がちに兄を伺うと、マルチェロはまた眉間を寄せて口を引き結んでいた。 ククールが失言したのかと慌てて謝る前にマルチェロが口を開いた。

「ここ1ヶ月、私はどうかしていた」

兄は低く語りだした。この羽衣を纏った舞人が現れたこと。 それからその舞人の舞に夢中になったこと。しかし今日急に目が覚めたこと。

「お前のことがずっと心の底でうずいていて、叫びだしたいのに羽衣を目にするとそれすら薄らいでいって。・・・どうしてお前以外の舞を見たいなどど」

マルチェロは目を眇めながら手の甲でククールの頬を撫でた。 それはあの麗人と同じか、それよりも暖かい動きだった。 じわじわと兄の熱が浸透してきて、ククールは涙をこぼした。 兄の手からは血の匂いがしていた。きっとその舞人を切ってきたのだろう。 この人は恐ろしい人だ。

「ククール、私の舞人はお前だけだ」

「うん、オレはアンタだけのものだよ」

「その言葉、真だな?」

「オレはいつだってアンタの前では真実しか言わない、誓うよ」

マルチェロはふ、と笑った。

「愛しているククール、お前に誓う。永久にお前と共にいよう」

ククールが言葉の意味を理解する前に、マルチェロの唇が降ってきた。 瞼に頬に鼻に唇に。何度も何度も口付けられ、ククールは頭が真っ白になって、兄の胸にしがみついた。

「王、おうさま・・・マルチェロ」

口付けの合間に何度も名前を呼んで、更に深く抱きしめられて、その夜ククールは気が遠くなるような幸せな時を過ごした。



それからというもの、王は七色の羽衣を纏った舞人の舞だけを見て過ごし、舞人の寝場所は王の寝殿になった。 神の生んだ国は、七色に輝くような繁栄を築いた。

 

 

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