誰かの風の跡
部落からそう遠くない所に、誰かが隠れているかもしれない、とアイサが言った。 もしそれが本当ならば、次にしなくてはならないことは決まっている。 「ワイパーに報告しといで」 まだあどけなさの残る顔が恐怖に歪んだ。 「やだ!ラキが行ってよ!」 マントラのせいなのだろうか、この子は昔からワイパーのことを怖がっている。 ほんの小さな赤ん坊の頃から、彼が騒ぎを起こすたびに泣き声を上げていた。 しれない、なんて曖昧な言葉も、直接報告に行きたくない気持ちが言わせたに違いない。 早く報告しなくてはいけないのに、アイサは足にしがみついて離れない。このまま、わがままを通すつもりらしい。 「一緒に行ってあげるから。おいで」 そっと手を取ると、すがる様に見上げるアイサに微笑んでみせた。 ワイパーを怖がるアイサの気持ちは分からないでもない。それに、彼を恐れているのはアイサだけはないのだ。 共に戦う仲間達でさえ、怒りを露わにする彼に戸惑いを隠しきれない時がある。 一瞬表情が明るくなったのもつかの間、戦士のいるテントへ近づくにつれ、アイサの手にこもる力は強くなっていく。 テントの中では、カマキリとブラハム、ゲンボウといった、いつものメンバーが話し込んでいた。 中に入った途端に、アイサは堪えきれず、私の後ろに隠れてしまった。 怖いもの見たさにこっそりと様子を窺う目の先では、苛立ちを隠しきれないワイパーが、忙しげに煙草を吹かしている。 「ワイパー、侵入者だよ」 俯いていた顔を上げて、煙草を投げ捨てる。アイサが服のすそをぎゅっと握った。 「わかった。行くぞ」 それだけ言うと、飛ぶように外へと出て行く。きっと、私たちのことなんて目に入っていない。 緊張をみなぎらせた背中が、段々小さくなっていく。何年経っても変わらない風景がそこにあった。 「ありがとう。ラキは優しいから好きだよ」 戦士たちがテントを出てしまうと、アイサは少しはにかんだ笑顔を見せて言った。 「それはどうも。でも、ワイパーに報告くらいできるようになってくれなきゃ、一人前の戦士とは言えないね」 「う゛っ!」 さっきの緊張に比べたら、少しからかったくらい、罪にはならないだろう。 使いの駄賃代わりだよ、からかってごめん、と謝ってみたものの、アイサは可愛い頬を膨らませている。 ワイパーにだって、こんな時があったのだ。この子くらいの歳の頃が、私にもあった。 私だって、ワイパーが怖い。気持ちはその頃から変わらない。 一度だけ、不用意にそばに寄ってしまったことがある。 どうして、そんな状況になってしまったのだっけ。 目が合ってしまったから、何も話さないのも不自然に思って、無理をしたのかもしれない。 私が何か言うたび、彼の眉間に寄ったしわが深くなる気がして、気分が落ち着かなかった。 怖くて目には涙が滲んでくるし、顔は火照ってくる。まともに顔を見ることも出来ない。 早く話を済ませてしまいたいのに、身体が意思と無関係に立ち止まることを要求している。 頭の中は心臓の音で掻き乱されてぐらぐらしてしまうので、まっすぐに立っていられない。 そのうちに、無言になった私を残して、ワイパーはどこかへ行ってしまった。 その時から、彼と話をする時には一定の距離を置くようになった。 自分への戒めも込めて。 今なら、彼だって何を言うべきか分からなかったのかもしれない、と懐かしく思い返すことができるのに。 あれから時は過ぎて、戦士たちは逞しく成長した。時はスカイピアの住人への怒りも成長させた。 エネルという独裁者が出現した今、これ以上黙っていることはできないだろう。 ワイパーの苛立ちは部落中に伝わり、戦士たちは命を捨てる覚悟を決め始めている。 口を閉ざしてはいても、行動を見れば誰より一族を愛していることなんて明白だ。だからこそ、誰もが恐れを抱きつつ彼に従っていく。 酋長や親たちに、彼らを止める力はもうない。ただ、一族の無念が晴れるようにと祈ることしかできない。 アイサのマントラが何を感じ取っているのか。私が知ることはないだろう。 彼の怒り、憎しみ、そんな激しい気持ちが伝わってくるのだろうか。それとも葛藤、悲しみのような苦痛が伝わってくるのだろうか。 私にもそうした能力があればいいのに、と思わずにはいられない。 もっと弱音を吐いてくれたらいいのに。そうしたら、私が出来ること全部で慰めてあげるのに。 しかし、そう思っていても、口に出す日は来ないのだ。 いつだって甘えを許さない彼が、私の小さな思いなんて簡単に切り捨ててしまいそうで怖いから。 彼のように、祖先を思って命を捧げることはできないから。 私が愛しているのは、今を生きている人だから。 せめて、この戦いが終るまで、私は静かに祈りを捧げていよう。闘神が姿をうつした背中に。 見守っていよう。シャンドラにともる灯があの人を照らすまでは。 あなたが捨てていったもの全部、私が拾い集めて、前に進んで行こう。
03/10/21
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